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Table Soccer World |
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〈日本 foosball 事情 -六本木編 3-
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1990〜1997年、foosballの第二次黄金期の到来は、我々年長組のfooserにとって、想い描いていたコトが次々に現実のものになっていった嬉しい時期でもあった。
私は、聖地の変貌を体験した数少ないfooserの一人であろう…。
時代はバブルに突入し、よりお金をかけることが素晴らしいことと勘違いした若者が外車を乗り回し、金をばらまく異常な時代だった。
フライデーが閉店した後、衰退していたFoosball世界に再び光が当たり始めたのは、日系カナダ人スタン・トダの功績によるところが少なくない。
彼は英語と下手な日本語を流暢に使い分け、六本木の外国人が経営するパブ系の店にfoosball tableを設置して行ったのだ。特にヘンリーアフリカのテーブルは、かなり老朽化しており、プレーヤーからクレームも多かった。台湾製であろうが歓迎すべきことであり、不満などあるはずがなかった。
またこの時代は、ブラジリアンバーの全盛期でもあった。西麻布のアカラジェやピントス、サルサ、マラカナなどのお店がブラジル人特有のノリで盛り上がり、異常に熱いfoosballを繰り広げていた。抜群の身体能力と、動体視力、反射神経からくり出すショットが彼らのfoosballのスタイルだ。そのスピードには、なかなかついて行けず、翻弄され、周りの歓声にも気押されて、厳しい試合展開を幾度も経験した記憶がある。
他にもアメリカ的なお店、ミステリオ、ブラックマーケット、バイタ、バークレー、などに、次々とfoosball tableが登場した。
当時、お店単位のトーナメントがいたるところで開催され、そのすべてをスタンが仕切っていた。しかも彼は、賞金、トロフィー、盾をお店に設置するなど、プロモーションにも積極的だった。
大きな大会は、ほとんどヘンリーアフリカで開催され、優勝商品としてfoosball tableを商品にしていたこともあった。勿論、そのテーブルは私が頂戴し、今でも使っている。私にとっては、幸せな時代であり、ずっと続いて欲しいと願ったものであった。
結局1994年から1997年までに7回優勝、3回準優勝。向かうところ敵なしであった。
唯一プレーヤーとしてマークしなくてはならなかったのは山崎良平氏。彼ともペアを組んだりしたが、毎回優勝してしまうので、ある時期からあえて組むことをやめ、お互いに一人のプレイヤーとして技術を磨き合うことになった。
印象的な大会は、聖地であったヘンリーアフリカの閉店とともに常連がそのまま移った、オーバーヒートというお店での年末の大会だ。当時のビッグイベントで、関西から凄腕のプレーヤーも参加し、大いに盛り上がった。いつも30組近くも参加する大会で、必ず大阪の磯山謙太氏のチームが勝ちあがってくる。磯山謙太氏との対戦は、お互いにミリオンダラテーブルの最強といわれた、バックピンショットの撃ち合いでのシーソーゲームとなった。
手に汗握る最高のゲームを多くの歓声の中進行したが、最後は後ろからのバンクショットの切れの差で、残念ながら敗退し、大阪にトロフィーをもって行かれてしまった。
この敗退は私にとって、大きな刺激となった。常勝にはピリオドを打たれたが、新たな大きな目標が私の中で育つきっかけとなった。東京ばかりが天下ではなく日本にもいろいろすごいプレーヤーがいるのかとあらためて実感した時であった。
一説によるとその当時は大阪の方がfoosball人口が多く、プレーレベルも高かったという人もいる。
実際若き頃、神戸のセカンドチャンスという西の聖地でこてんぱんにやられた苦い記憶が私にもある。
Japan Foosball Club
代表 植野 穰
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